畳の大きさはどのように して決めた
普通、畳の大きさは、幅三尺(九〇・九センチ)、長さ六尺二八一・八センチ)で、「三尺六尺」といえば畳のことをいい、人間がI人横になれるという大きさが基準になっています。
ところで、畳にコ只間」と「田舎間(江戸間)」かおるのはご存じのとおりです。関西地方では、家を建てるときに、畳の広さを基準にして家そのものをつくっていました。
だから「畳と家具を持って引っ越しする」といわれたほど、その畳はどこの家に持っていってもぴたりと寸法があいました。
これに対して関東では、まず家をつくりあげ、そのあと柱と柱の寸法に合うよう畳がつくられ、あとがら畳を入れました。そこで、京間と田舎間とでは、京間のほうが広いのです。
「床の間」がつくられたわけは
もともとの日本家屋は板張りの床で、畳は寝具として使われていました。それが、畳を家中に敷きつめるようになったのは、室町時代に日本家屋の原形といわれる「書院造り」が完成してからです。
このとき、畳の床よりもさらに一段高い床をつくり、「床の間」と呼んだのです。
ところで「書院」とはもともと悟りを開くための部屋のことで、そのため、この床の聞に神や仏を描いた絵とか、教えを書いた掛け軸を掛けて、灯火をともし、供物を供えてノ祀ったのです。
それが転じて、後には美術的に価値の高い絵や置物を置いて鑑賞するようになりました。
床の間に人が上がってはいけないというのは、神を祀る場所だったころの名残です。
男性がネクタイを結ぶわけは
ネクタイのはじまりは防寒川のネッカチーフです。これに色柄や結び方を工夫して、おしゃれの意味を持たせたのがボヘミアンクイ。いまのネクタイの原形です。一方、背広は当初は下級の宮廷使用人の服でしたが、階級社会がくずれるにつれて、フォーマルな服へと変化しました。
19世紀になると、男性の服装としての背広が定着します。この背広には、大きなボヘ
ミアンタイは胸あわせが狭すぎ、ネッカチーフはだんだんベルト状に変わっていきます。
その後蝶ネクタイが生まれ、ペルト状のひもは丈が長くなって、いまのようなネクタイになりました。背広の定着とともにネクタイは装身具として、礼装の基準となったのです。