車のハンドルはなぜ丸い
乗り物には、いろいろなハンドルがあります。自転車、ヘリコプター、飛行機、電車、すべて違います。
現在、自動車のハンドルはすべて丸くなっています。たとえ、子ども用の足でこぐ自動車であっても丸ハンドルです。
これはいったい、どういう理由からなのでしょうか。
もちろん、丸ハンドルのほうが、両手で支えやすいので、からだが安定するということはあります。しかし、それだけの理由からではありません。
実をいうと、初期の自動車は丸ハンドルではなかったのです。
自動車第一号といわれるニコラスーヨセフーキュノーの蒸気自動車のハンドルは、自転車のハンドルの片一方だけを前車輪につけたようなものでした。もちろん、三輪車です。
当時としては、四輪車にみあったハンドルを開発するのはまだ無理だったのです。
その後、四輪馬車の仕組み(前車輪の車軸の中央に心皿という回転台をとりつけ、自由にまわれるようにした。この前車軸と馬の舵棒とを連結しておくことで、馬の進む方向に前車輪がついていく)を応用して、四輪自動車がつくられました。つまり、前車軸そのものがよかろわけです。
もちろん、失敗です。
なぜなら、前車輪の一方が小石に乗り上げたりして衝撃を受けると、前車軸もよわってしまい、思わぬ方向に車が走ってしまうからです。
馬車では、舵棒の指示によって、馬が引っ張るのでこんなことは起きなかったのです。
飛行機のような重いものがなぜ空に浮く
空を自由に飛びたい、という人間の夢は最初、鳥のように羽をつけてハタハタ動かすことからはじまりました。
しかし、飛行機が浮き上がる理山は、翼を動かすことではなく、むしろ、翼の形そのものにあるのです。
模型飛行機をつくったことのある人ならばどなたもご存じでしょうが、翼の断面は、ながらかな山のような形をしています。飛行機が浮かぶのは、すべてこの形によるものなのです。
空気中では、空気の流れが速いほど、周囲におよぼす圧力が小さくなります。これは、ほかの流体(気体・液体)でも同様で、「ベルヌーイの定理」と呼ばれているものです。
この定理を、飛行機の翼にあてはめてみましょう。
翼の上と下を通る二つの空気の流れは、同じ時間をかけて翼を横切ります。すなわち、上側の空気は、下側の空気よりも、合流するまでに良い距離を進みます。
空気は、下側より上側のほうが速く流れることになります。
ベルヌーイの定理から、速い流れ(上側)の側からの圧力は小さく、遅い流れ(下側)の側からの圧力は大きnUとが、おわかりになると思います。
このことによって、翼には、揚力がはたらき、飛行機の重力とつり合って、空中に浮かぶことができるのです。
もちろん、この揚力は、空気の流れがなければ起きません。
そのために、プロペラとエンジンで、機体を前方に動かしているのです。
ところで、ジェット推進によって前進する超音速航空機の場合、プロペラ機のような大きな翼は必要ありません。
それは、揚力は、翼の面積に比例すると同時に、速度の二乗にも比例するからです。
つまり、二倍の速度で飛ぶ飛行機の翼の大きさは、四分の一でよいことになるわけです。
ちなみに、揚力を利用した遊びを二、三紹介しておきましょう。
竹トンボ”の上面を削るのも、揚力を起こして、よく飛ぶようにするためです。
それに、最近流行の。フリスビー”も、揚力を利用した遊びのひとつです。フリスビーは、投げて遊ぶ円盤状の遊具ですが、その円盤の上面は、揚力を起TTでてべ ゆるやかに盛り上かっているのです。
飛行機の原理も、竹トンボやフリスビーと同じとは、ちょっとおどろきです。
なぜサンマは目黒にかぎるのか
もちろん「サンマは目黒にかざる」といった殿様は、落語の世界の住人ですが、現実の殿様も、こと食生活に関しては、落語の殿様と変わりがなかったようです。
徳川家の台所、江戸城の大奥では食事要員だけでも一五〇人ら、将軍の食事にも、相当な出費がかさんだようです。
将軍用の食事は、毎食それぞれ10人前ずつつくられました。このうち二人前が毒昧役に
まわり、残った八人前加将軍用になるわけです。
なぜ八人前も食事を用意したのかというと、将軍は料理に一箸つけて□に運ぶと、そのお膳はさげ、別のお膳に取り替える作法になっていたからです。しかも三膳まで、という作法になっていたというからだよりません。
他にも細かい作法がいっぱいあって、ご飯は三杯までなどというのもありました。不自由もいいところです。
目黒でジュウジュウ脂ののっている、アツアツのサンマを食べた殿様が、飛び上がって「ウマイ」と叫んだ気持ちがよくわかります。
余った食事はというと、みんな給仕や女中たちで食べました。食事の余りだけでなく、料理の素材にしても、将軍用は最高のものをちょっぴり選んで使用しましたが、その他の部分は、家来たちで分けました。
たとえば、魚なら二〇〇匹いるうちの一匹を選び、その魚から切り身を一切れか二切れをとって、残りの九九匹は家来で分けあったというわけです。
幕府の将軍用の食費のうち、本人の口に入るのは、ほんのに満たなかったのです。
端午の節句に鯉のぼりを立てるわけは
端午の節句 レしいうのは、七日)、重陽(九月九~)の祝いの」つです。
もともとは、旧暦の最初自~の日、つまり端午の~を祝ったものだったのですが、いつのころからか三月五目を祝うようになり、そ’ニビ「端五」と書いたりもしまよ。
二月二目のに已は’『雛の節句」ともいわれているように、 】て、五月五目の「端勺岫節白」はが子を祝うものとされています。
わが国では、戦後になってから上の端午の節句の五八五‥‥‥白丁‐こしもの日」と制定し、国尺力祝~としています、
いでころで、’ニクもい日にに、五月情れの人咋土鯉山よりうに 一ゆうと泳いでいる風景が必ず見られます。とくに、昔は長男が牛まれると、それを祝って鯉のぼりを立てたものです。
これは、昔、中国の楚の人、たため、楚の人が屈原を哀れに思い、紙の鯉をつくってまつった’ことにはじまると伝えら・れています。
わが国では室町時代に、長い布を半月形にたわめた竹に張って、これをさおにつけ、ちょうど戦いのときののぼりのようにした吹き流しを、武士の家だけが立てていました。
汪り時代に入ると、武士だけでなく町家でも、この吹き流しにならつて、紙でつくった鯉を竿頭に上げるようになり、これを[~月鯉]と呼ぶようになりました。
「鯉の滝のぼり」という故事でもよく知られるように、鯉は威勢のいい、『縁起物として、男子のか一身出世を願って立てられたものです。
ち・ヽなみに、五月五目には椋や伯餅を食べる習わしがあり~すが、これも屈原の故事によるものです。
それは、屈原のお姉さんが弟の死を弔うために、五月斤目になると餅をつくって旧羅に投げ入れ、虻竜をまつったゴとからはじまったといわれています。
また、このほかに邪気今はらうために菖蒲や蓬を軒先に差したり、菖蒲湯に入ったりします竿頭に上げるようになり、これを[~月鯉]と呼ぶようになりました。
「鯉の滝のぼり」という故事でもよく知られるように、鯉は威勢のいい、『縁起物として、男子のか一身出世を願って立てられたものです。
ちなみに、五月五目には椋や伯餅を食べる習わしがあり~すが、これも屈原の故事によ
るものです。
それは、屈原のお姉さんが弟の死を弔うために、五月斤目になると餅をつくって旧羅に投げ入れ、虻竜をまつったゴとからはじまったといわれています。
また、このほかに邪気今はらうために菖蒲や蓬を軒先に差したり、菖蒲湯に入ったりします
結婚式のウェディングケーキの起源は
「それでは新郎新婦にウェディングケーキにナイフを入れていただきます」
結婚披露宴ではおなじみの光景です。
このウェディングケーキ、最初に登場したのはローマの時代といわれています。
そのころ裕福な家で結婚式をあげるときは、特製のケーキが出されました。そして、花嫁と花婿がいっしょにこのケーキを食べ、参列している客にも食べてもらったのです。
ケーキは「豊かさ、幸せ」を意味し、客たちは白分たちにもそんな幸せが分け与えられることを願いつつ、ケーキを食べたといいます。ちなみに、そのケーキ、花嫁の頭の上で切られたそうです。
また、ヨーロッパでは結婚式に招かれた客が、それぞれ香料入りのパンを持ち寄り、テーブルの上に山のように積み上げる習慣があったといいます。
そして、花嫁と花婿はパンの山をはさんで立ち、山越しにキスを交わしたそうです。この場合にもパンの山は、幸せを象徴していたといいます。
ところで、ケーキは英語の~回からきたものですが、その意味はもともと、平たく丸い
パンのことでした。
ケーキは、最初、小麦粉を牛乳でこね、かゆ状にしかものを平たく焼いたもので、パンとあまり変わりのないものだったのです。
ウェディングケーキが出たついでに、結婚指輪についても説明しておきましょう。
ご存じのように、結婚指輪は「水遠の愛のしるし」ですが、一説によると「略奪のしるし」ともいわれています。
略奪結婚が行われていた時代、男は捕まえた女性に環をはめて「略奪のしるし」にしていました。つまり、腕や足にはめた環は、その女がある男の。財産”だということを表していたのです。
そういった風習が、いつの間にか指輪に変わっていったというわけです。
もちろん、こんな説ばかりあるわけではありません。
指輪の円か、永遠あるいは完全さを意味している、という説もあるにはあります。
畳の大きさはどのように して決めた
普通、畳の大きさは、幅三尺(九〇・九センチ)、長さ六尺二八一・八センチ)で、「三尺六尺」といえば畳のことをいい、人間がI人横になれるという大きさが基準になっています。
ところで、畳にコ只間」と「田舎間(江戸間)」かおるのはご存じのとおりです。関西地方では、家を建てるときに、畳の広さを基準にして家そのものをつくっていました。
だから「畳と家具を持って引っ越しする」といわれたほど、その畳はどこの家に持っていってもぴたりと寸法があいました。
これに対して関東では、まず家をつくりあげ、そのあと柱と柱の寸法に合うよう畳がつくられ、あとがら畳を入れました。そこで、京間と田舎間とでは、京間のほうが広いのです。
「床の間」がつくられたわけは
もともとの日本家屋は板張りの床で、畳は寝具として使われていました。それが、畳を家中に敷きつめるようになったのは、室町時代に日本家屋の原形といわれる「書院造り」が完成してからです。
このとき、畳の床よりもさらに一段高い床をつくり、「床の間」と呼んだのです。
ところで「書院」とはもともと悟りを開くための部屋のことで、そのため、この床の聞に神や仏を描いた絵とか、教えを書いた掛け軸を掛けて、灯火をともし、供物を供えてノ祀ったのです。
それが転じて、後には美術的に価値の高い絵や置物を置いて鑑賞するようになりました。
床の間に人が上がってはいけないというのは、神を祀る場所だったころの名残です。
男性がネクタイを結ぶわけは
ネクタイのはじまりは防寒川のネッカチーフです。これに色柄や結び方を工夫して、おしゃれの意味を持たせたのがボヘミアンクイ。いまのネクタイの原形です。一方、背広は当初は下級の宮廷使用人の服でしたが、階級社会がくずれるにつれて、フォーマルな服へと変化しました。
19世紀になると、男性の服装としての背広が定着します。この背広には、大きなボヘ
ミアンタイは胸あわせが狭すぎ、ネッカチーフはだんだんベルト状に変わっていきます。
その後蝶ネクタイが生まれ、ペルト状のひもは丈が長くなって、いまのようなネクタイになりました。背広の定着とともにネクタイは装身具として、礼装の基準となったのです。
船の大きさはなぜ「トン」と表す
世界最大のタンカー日精丸は四八万四〇〇〇トンというように、船の大きさは「トン」で表すのが普通です。
これを〇〇〇キログラムを」トンとする、重量単位の「トン」と混同している人がいますが、これは船の容積を表したもので、別の単位です。
さて、この「トン」の起源ですが、一五世紀のイギリスにさかのぽります。
当時イギリスでは、船の大きさによって税金をかけるためこそ二号に引~ご涯付・そ稽犬」めるかではかっていました。
」の樽け、容積二五二ガロン、酒を満たしたときの重量二二四〇ポンドといわれます。
空の酒樽をたたいたときの音から、樽のことを「トン」と称したのでご五〇〇樽を五〇〇トン、八〇〇樽を八〇〇トンといったのです。
イギリスは、さすがに海洋国だけあって船や航海に関することぼけ、イギリスに出来するものが多いのですが、これもその1つです。