ハエが手や足をこするのはなぜ?

ハエの足の先には吸盤のようなものがついています。そのためにハエは天井や壁を自由に歩きまわれるわけです。

 

ところが、そのうちに吸盤にゴミがついて、その効力が失われてきます。そこで、そのゴミを落とし、唾液を塗りつけて適度な湿り気を与えているのが、あの手足をすりあわせている動作なのです。

 

この吸盤には細菌がたくさん付着していて、それをばらまくという、ありかたくない役目も果たしています。

ビルの窓ガラスの赤い三角マークはなに?

ビルの窓ガラスに、赤い三角形のマークがついているのを見かけることかあります。

 

これは、火災が発生した場合などに、外部から進入する窓―非常用進人目を示す目じる

しなのです。

 

つまり、火災のとき、内部に閉じ込められた人をはしご車を使って救出する場合、この窓をこわして進入すれば、容易に建物内部に入りこめるわけです。

 

この非常用進人目は、三一メートル以下で三階以上の階に設けることと建築基準法施行令に定められています。

ただし、他の保安設備が整っているビルには、つけられていない場合もあります。

 

鉄道のトンネルの出口、入口はどうして決めている

トンネルはどっちが入口でどっちが出口……とんち問答みたいですが、トンネルの建設や保線にあたる人たちは、ちゃんと人口と出目を区別しているのです。

 

その決め方は、鉄道の起点に近いほうを入口、終点に近いほうを出□としています。

 

たとえば、東海道本線ですと、起点は東京、終点は神戸です。したがって、丹那トンネルの場合は、熱海側か人口、三島側か出口となります。

 

 

「おみおつけ」を漢字で書くと?

「御御御付」となります。

もともとはこの言葉は「つけ」だけなのです。これにていねいの接頭語「お」を三つも重ねたのです。

「つけ」とは、ご飯の添え物という意味で、汁物のことです。

調味料のはじまりはなんでしょう

みそ、しょうゆ、塩、酢、ソース、砂糖、現代人の食生活は、調味料の多彩さでも、バラエテイーに富んでいます。

 

生肉を食べていた古代人から進化して、調理したものを食べるようになった時代の人々は、やはり調味料を使っていました。

 

縄文時代になると、本の実を利用して、パンをつくったり、酒をつくったりしている昔の日本人は、塩保存の意味も兼ねて、本の実をつき砕いて、みそのようなものをつくっているのです。

 

副食物も兼ねた、この「本の実みそ」が、加工してつくった調味料の始まりではなかったかと思われます。

 

縄文時代の終わりになると、「草醤」といわれる漬け物に似たもの、「肉醤」という魚やヶモノの肉を漬けた塩辛状のもの、そして「穀醤」といわれる雑穀を漬け込んだみそに近いものが出現してきます。

 

これらは、主食や副食に直接混ぜたり、上からかけたり、または単独でというように、いろいろな食べ方がされていました。

 

草醤、肉醤、穀醤がしだいに発達変化して、今日のみそやしょうゆ、酢などになってきたのです。

 

 

くちかみ酒とは一体 なんだろう

酒の話には、よく猿酒のことが出てきます。

 

猿酒というのは、猿が本の穴や岩のくぼみに集めておいた本の実などが、雨風のために自然発酵したもので、これが、酒のはじまりだというのです。

 

人間も、食糧を蓄える生活をしてきたのですから、なにも猿酒で発見しなくても、自然発酵した酒の経験は持つたかもしれず、これが、やがて加工技術につながっていったことも考えられます。

 

現在伝わっている伝承の中に、米を噛んで発酵させたという話があります。

この口醸酒は、アフリカやブラジルの原住民の中にも同じような方法が見られますので、あるいはぽんとうだったのかもしれません。

 

それというのも、『古事記』には「須須許里がかみし酒に、我酔いにけり」と応神天皇が歌つたとありますし、『万葉集』には、大伴旅人の歌で。君がため醸みし待酒安の野にひとりや飲まん友無しにして”というのがあり、これが口醸酒の証拠によく引用されたりしています。

口醸酒は、かなり後まで残っていたらしく、一七五七年に琉球(のちの沖縄県)に渡った清朝の使節が、尚王の宮廷で出された酒の味に驚き、つくり方を聞いたと’」ろ、それは若い女の子が口でかんでつくったと聞かされ、二度と飲まなかった、という話も残っています。

 

酒づくりは、中国や朝鮮からの帰化人が、より高度な酒造法をもたらしたことで、しだいに現代の酒づくりに近くなっていきました。時代が下って『延喜式』には、酒をつくる場合「酒殿一宇、白殿一宇、麹室一宇」を用意すると書かれていますが、それは、四人の女が一石の米を臼殿で精米し、酒殿には酒を醸すカメを並べ、麹室では麹をつくるというものです。

 

これでみると、現在の酒づくりと、ほとんど変わりはないようです。

 

また「延喜式」には、このようにしてつくる酒のほかに、濃い酒、甘い酒、頓酒、汁糟など、一〇種以上の酒のつくり方が書かれてあり、多彩な技術が発展していたことをうかがわせます。

 

二十世紀梨はいつどこで生まれたか

梨の中でも甘くて水気たっぶりの二十世紀梨は最も人気があります。

 

この梨は現在では鳥取県が最大の産地になっていますが、もともとの生まれは関東、~葉県松戸市なのです。

 

松戸で農業を営んでいた松戸覚之助氏が、自然交配で生まれた新しい苗木を発見したのが二十世紀梨の起こりです。

 

松戸氏はその後改良を重ね、明治三〇年ごろ(一八九七年ごろ)に新しい品種として完成させました。

ですから、二十世紀梨の誕生は、二〇世紀を三年後に控える、一九世紀末の出来事だったのです。

 

松戸氏は、この梨に最初は「青梨新太白」という名前をつけましたが、のちに「二十世

紀」と改めました。

 

現在、千葉県の松戸市立博物館には、この原木が保存されています。また、現地には記念碑も建っています。

 

サンドイッチの発明者はだれ??

パンの間にチーズやハムや野菜をはさんでつくったあのサンドイッチ。ピクニックのべんとうや、軽食スナックでもおなじみです。

 

一八世紀、イギリスはケント州にいたサンドイッチ伯爵は、ギャンブルが三度の食事より好き。トランプを手にすると、一晩中でもテーブルの前を動きません。

そこで困るのが三度の食事。

なにしろ食べる時間がもったいないし、といって食べないとおなかがすくし。

 

考えた伯爵、召使いを呼んで、パンや肉や野菜を、トランプ台の横に並べさせました。

 

そして、パンを食べて、肉を食べてという手間と、ナイフやフォークを使う面倒を省いてしまい、二枚のパンの間に肉や野菜をはさんで、手づかみでムシャムシャやったというわけです。

 

サンドイッチ伯爵は、こうして度を越したギャンブル好きの悪名とともに、手軽な食べ物にも名を残すことになりました。

 

 

ところで、このサンドイッチ、名前こそ違いますが、同類の食べ物はすでに古くからあ

って、古代ローマでは「オッフラ」と呼ばれ、愛好されていたということです。